学生時代にオートバイで日本を走り回っていたって話しは何度も書いてますが、あの時ほど自由を感じたことはありません。
なにせ時計も持たず、腹が減ったら何かを食い、眠くなったら駅のベンチかテント張って寝る。時間なんぞは関係ない。日にちも曜日も関係ない。
でも、気が付いたら北朝鮮だった……なんてのは困るので地図だけは持って行きました。
しかし、これだけの自由を得るってことは、徹底的に孤独になるってことでもあるわけでして。口にした言葉は、「これください」と「ガソリン満タンね」。
これだけで一週間以上、誰とも会話をしなかったことが何度もありました。
この孤独感に嫌気がさしてユースホステルなどに泊まると(洗濯したいってのもあった)、同じような連中が集まってるから孤独からは解放されます。でも、今度は束縛が生まれるわけです。
自由、自由と若い頃は騒いでいたのですが、よくよく考えるに本当の自由ってのは孤独でもあるわけで……。それって自由と言えるのかしら?と思うのです。
同好の士が集まる場では、それなりの束縛はあっても目的が一緒だから自由感は、ある。
先週、被災地を廻ってきた際に仮設住宅にも立ち寄らせていただきました。狭い地域ですから、互いに顔は見知っているでしょうけど、ここには新たな規律が存在していました。新しい社会に身を置くわけですから、新しいルールがあって当然と思います。
こんな世界を垣間見させてもらうと、わたしはつくづく恵まれているのだと感じます。
その気になれば、たとえ孤独であっても自由を得ることが出来るのですから。気の合う仲間もいますから、孤独だと思ったら、その仲間の所に行けばいい。私には選択できる自由がある。
これこそが“自由”ってことなのかもしれませんね。
さて冒頭の話しに戻るのですが、小島よしおばりに「日時も曜日も関係ねぇ!」と流浪していたわけですが、ある日気づくと手持ちのお金が残り数十円しかない。
郵便局を探してお金を下ろそうとしたらその日は土曜。しかも気付いたのが午後で既に閉まってました。更に運が悪いことに月曜日も旗日で郵便局は休み。結局、丸二日と半日を水だけで過ごしたのでした。
自由は時に、こんな試練も与えてくれるのです。
(要は自分がアッパ~!となってただけですが)
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