wikireeks正直言ってこの本を読むまで、私はウィキリークスの行っていることは暴力だと思っていた。(ウィキリークスを知らない人はコチラを参照ください)。
本の中でも序盤、上杉氏はこのウィキリークスを賛辞するような書き方をしていて(実際はそこまで絶対的な賞賛をしてるわけでもない)、ちょっと不愉快だった。

国家レベルの機密文書をネット上で一般に公開してしまうという行為は、私は容認出来なかった。
しかし上杉氏の言うように、それがネットという世界だから人からは(特に日本人)暴露サイトと言われる。ところがもしもそれを大手のメディアがやったら大スクープとなる。

昔から私は日本に真のジャーナリズムは存在しないと思っていたのだけれど、それは私が接している情報源にジャーナリズムという意識(もしくは認識)が欠落していたのであって、決して日本にジャーナリズムが存在しないわけではなかった。
真のジャーナリストがエセ・ジャーナリズムに封じ込まれていたのだ。
確かにネット上を探索してると「オッ!」と思わせる記述にぶち当たることがある。今や私も含め、誰でもがネットを介して情報を発信し、誰でもがそれを受け止める事が出来る。
新聞やテレビが衰退していくのは、ネットという新しいメディアが出てきたからだと一般的には言われているけれど、それは新しいメディアが台頭してきたからではなくて、既存のメディアが本来あるべきジャーナリズムの姿を忘れてしまっているからだ。所詮、ネットなどは情報伝達の道具にすぎないのに(新聞やテレビもそうだけど)、テレビや新聞がどうして“道具”に駆逐されるのだ。んなことあるか。ネットの方に求めるものが、真のジャーナリズムがある…ってことじゃないのか? テレビや新聞にネット以上の中身が無い、ってことだろう。
中にはそれに気付いている人もいるのだろうけど、大きな組織の、巨大なメディア間談合のようなシステムの中にあっては、それも抹殺されてきたのだろう。

本の中で氏は「ジャーナリズムの最低限の仕事は、政府などの公権力が隠そうとする事実を暴くことにある」と記しているけど、私はそれだけでは暴露と変わらんと思う。その裏に何らかの意志があり、何らかの意見なり意図が加わって初めてジャーナリズムだと言えると思う。
ウィキリークスに持っていた私の嫌悪感はそこにあった。機密文書を入手したと国家に脅しをかけるような行為はジャーナリズムでも何でもなく、単なる恐喝に近い。(金品を要求してるわけじゃなさそうだからこの言葉は不適切だけど)。
しかし、最近ではウィキリークスも情報を公開する前には充分な検証をしてるようだが…。

どちらにしてもTwitterやFacebookを介してチェニジアで始まったジャスミン革命が、中東全域に飛び火したように、これからはネットを介した情報が優勢になることは間違いない。中国政府は一所懸命ネット制限を行っているようだけど、無駄な努力だろう。

これからの私たちにとっての問題はネット上に氾濫する情報をどのように捉えるか、だ。単純に鵜呑みにしてしまう人が多いのも事実。それが怖い。
情報に対する真贋を見抜く知識と、その情報を元に自分で考える知恵が必要だ。「ペンは剣よりも強し」という言葉があるが、まさにその言葉通りの時代に突入している。ペンにも善と悪が現れてくるだろう(すでに現れてる)。邪悪なペンに刺されない知識と知恵という盾と鎧を持たねばならない。