菅首相の会見に腹が立ったのは私だけではないだろうと思う。
話してる中身が空虚なのに加え、あの寝ぼけ眼(まなこ)はなんとかならんものか(実際に寝とらん? そうとは思えん。いつもの顔だ)。
緊迫感がまるで伝わってこない。彼はこの未曾有の危機をどの程度危機として認識してるのだろうか。
国民に何かを訴えかけるのなら、せめて眼力くらい示してくれなきゃ、どんなに中身の濃いことしゃべっても説得力ゼロだ。説得力無いところに中身も無いのだから手に負えん。福島原発半径20㌔以内の住人に避難勧告するなら避難場所を確保した上で迎えに行くのがスジだろう。
しかしそんな自分も先週末やっとの思いで帰宅し、驚愕のテレビ報道を見ていても「大変だ!何かしなくちゃ」と思っても思考がまとまらなかった。
菅さん、私と同程度だ。ってことは私も総理大臣になれるか? 現状の日本では難しいが、平時だったら誰でもなれそうではある……。彼の姿見てるとそう思えてしまうのが悲しい。
実は昨日の日記にこの写真を入れようとして思いとどまったのだった。
3月11日14時46分、私が路上で地震に遭遇した直後の写真。道路向こうの右側のビル屋上の給水塔が傾き、路上に大量の水が降ってきたのを目撃して慌てて携帯で写したけど、距離が遠すぎたし、タイミングも遅くて写り込んでいなかった。
路上で女性たちが抱き合ってるので、なんとか地震の際の写真と分かる程度になってしまった。
前職時代。新米記者だった頃の私は、よく編集部を抜け出して写真部の暗室に潜り込んでいた。
あの酢酸のツーンと鼻を突く臭いが充満する部屋の中で、帯同したカメラマン氏の撮影した写真が、徐々に画像となって現れてくるのが面白くて、記事も書かずに暗室にこもっていた。
古株カメラマン氏は私に「邪魔だから出ていけ!」と言いつつも、フィルムの取り出し方から停止液に浸し、定着液にくぐらせ、フィルムを乾燥させて印画紙に焼き付けるという一連の作業を教えてくれた。一枚の紙焼き写真が出来上がるまでに1時間ちかくかかった。
その写真も今では全てデジタルになった。
連日届けられる東日本大震災の新聞報道写真も、現地から記事と共にメールで飛ばされてくるのだろう。
あの凶暴な津波が迫り来るシーンだけは動画に敵わないとは思うけど、現地の悲惨さや被災されてる方々の辛さは、テレビより写真の方が説得力があると私は思う。
昨日は某紙が、お婆ちゃんとその孫と思わしき二人が笑顔で写る写真が瓦礫の上で汚れて残ってる作品を掲載していた。モノトーンで無機質感漂う瓦礫の上でただ一点、色を放っている二人が写る写真は私の心を痛打した。
その瞬間を切り取ることが出来る写真の力は、私は動画の説得力の比ではないと思ってる。その瞬間を切り取ることでカメラマンは自分の意志を、強く表現できるからだ。
食料も水も、そして暖を取ることもままならない被災地では、報道カメラマンも記者もお手伝いをしていると聞いた。
新潟中越地震の時にはボランティアとして行った若者が、結局何も出来ず逆にお荷物になってしまったこともあった。さて、今の私たちに出来ることはいったい何だ? 募金寄付以外に何が出来るのだろう? 被災された方々は私たちに何をして欲しいのだろう?
思考がまとまらない……。思考回路が壊れたみたいだ……。
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