ダイビングをしようと思ったのは20数年前のことだ。
セスナで移動して一気に滑り降りるスキーを体験したくて、新婚旅行はカナダへ行こうとカミさんと決めていた。チケット手配をしに旅行代理店を訪れたら、とても綺麗な海のポスターが貼ってあったので、「ここは何処?」と聞くとパラオという島だという返事。カナダの説明を聞いていたのだが説明は右の耳から左へと素通りし、“パラオッテ、ドコサ?”と思考していた。結局カミさんの同意も得ずに、その場でカナダ行きをパラオに変更してしまった。雪渓もある雪山から常夏の島へ、急きょ予定変更だ。
初めて訪れた南の島は、強烈なインパクトを私たちに与えた。しかし当時は私もカミさんも、どちらかといえば山派。スキーが共通の趣味だったし、カミさんはあまり泳ぎが達者でない事もあって、しばらくはスキーと登山を続けていたが、パラオ以来、私はいつも海に潜りたいと思っていた。
そしてそのパラオ行から十数年たち、ついに私はダイビングのライセンスを取得した。
「山は活力を与えてくれるけど、海は体力を奪っていく」とずっと感じていた。共に強烈な紫外線を浴びる場所だけれど、山のそれは優しく感じ海はきつく感じる。でも、海中だけは私に力を与えてくれている。
海中は人間が入っていってはいけない領域だ。しかし、遙か太古の昔に人間もそこから誕生したからか、海の中は母親の胎内にいるような心地よさを感じるのは私だけだろうか?
機材を使用しなければ呼吸が出来ない…という絶対的に人間を拒絶する世界だから、常に死というものを忘れるわけにはいかない。けれど、あのダイビングをしているわずか1時間そこそこの時間が、何とも安堵感に満ちあふれているのはどうしてか?(だからこそ危険なのだろう)
宇宙遊泳をしたことは当然無いが、ドロップオフ際のドリフト・ダイビングは、まさに宇宙遊泳の気分そのものだ。
今年も既に幾つかの島に行こうと計画を練っている。気を引き締めて潜らなければ、と思っている。宇宙人の様な可愛い魚たちに会いに、太陽光が揺れる無重力の世界を堪能しに。
セスナで移動して一気に滑り降りるスキーを体験したくて、新婚旅行はカナダへ行こうとカミさんと決めていた。チケット手配をしに旅行代理店を訪れたら、とても綺麗な海のポスターが貼ってあったので、「ここは何処?」と聞くとパラオという島だという返事。カナダの説明を聞いていたのだが説明は右の耳から左へと素通りし、“パラオッテ、ドコサ?”と思考していた。結局カミさんの同意も得ずに、その場でカナダ行きをパラオに変更してしまった。雪渓もある雪山から常夏の島へ、急きょ予定変更だ。
初めて訪れた南の島は、強烈なインパクトを私たちに与えた。しかし当時は私もカミさんも、どちらかといえば山派。スキーが共通の趣味だったし、カミさんはあまり泳ぎが達者でない事もあって、しばらくはスキーと登山を続けていたが、パラオ以来、私はいつも海に潜りたいと思っていた。
そしてそのパラオ行から十数年たち、ついに私はダイビングのライセンスを取得した。
「山は活力を与えてくれるけど、海は体力を奪っていく」とずっと感じていた。共に強烈な紫外線を浴びる場所だけれど、山のそれは優しく感じ海はきつく感じる。でも、海中だけは私に力を与えてくれている。
海中は人間が入っていってはいけない領域だ。しかし、遙か太古の昔に人間もそこから誕生したからか、海の中は母親の胎内にいるような心地よさを感じるのは私だけだろうか?
機材を使用しなければ呼吸が出来ない…という絶対的に人間を拒絶する世界だから、常に死というものを忘れるわけにはいかない。けれど、あのダイビングをしているわずか1時間そこそこの時間が、何とも安堵感に満ちあふれているのはどうしてか?(だからこそ危険なのだろう)
宇宙遊泳をしたことは当然無いが、ドロップオフ際のドリフト・ダイビングは、まさに宇宙遊泳の気分そのものだ。
今年も既に幾つかの島に行こうと計画を練っている。気を引き締めて潜らなければ、と思っている。宇宙人の様な可愛い魚たちに会いに、太陽光が揺れる無重力の世界を堪能しに。
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