タカラガイの独り言

ちょっとした出来事やダイビングや旅のことなど徒然に。

2008年01月

ある人から「これ、面白いよ」と戴いたのだけれど、帯に書かれた“帰ろう、俺たちの丘へ。”のコピーで読む気を削がれ、自宅のデスク上で3ヶ月ほど寝ていました。

そのキャッチ・コピーから甘ったるい懐古的青春物語を連想してしまったのです。9dbd7b6b.jpg


この重松清の『カシオペの丘で』を戴いたあとで、私の後輩が彼の『送り火』を絶賛していたので、私も購入し正月の旅の道連れにしました。

こちらは短編集なのですが、なかなか想像力豊かな作品ばかりで文章も読みやすく楽しめました。

机の整理をしようとして『カシオペアの丘で』と『送り火』が同一の作家と気付きました。

早速ページを開いてみました。
読み始めて直ぐにやはりキャッチ・コピー通りの内容だなぁ?、とちょっと止めようかと思いました。
ところが上巻の中に、こんな会話が飛び出してきたのです。

「帰ろう……俊介……じいちゃんと一緒に……帰ろう……」。

この台詞に涙を流してしまいました。ストーリー上では特に涙する場面ではありません。

私は父が他界したときを思い出してしまったのです。霊安室で眠る父に私が言った言葉を思い出してしまったのです。
意識は物語から離れ、父が死んだ日の事が鮮明に思い出されたのです。

そこから止められなくなりました。

それ以降は物語にグイグイ引き込まれて、あっという間に下巻も読み切ってしまいました。
しかも下巻では、今度は物語に引き込まれ何度も泣いてしまいました。

読み進む内に先の展開が推測できるので、涙するほどのものでは無いとは思うのですが、どうも最近、歳のせいか涙もろくなって来ているようです。

それ以上に重松清という作家の筆力が凄いのでしょうね。
物語の展開が、先が判っているのに泣かせてしまう。なんか計算された文章力を感じました。

こんな文章を書けるように私もなりたいものです。そうすれば夢のような印税生活も可能になるかもしれません。(そりゃ無理か^^;)

ちなみにこの物語、ドラマ化したらきっと大ヒットしますよ。どうですか講談社さん、いっそ映画化でもしてみては。










過去に書いたロストの話には結構なアクセスがあります。

私が書き留めているこのブログの中で、リモアのキャスター破損話しに次ぐアクセス数です。
そんなアクセス・ログを見ていて、そう言えば日本でもロストした事、あったなぁ?と思い出し、Logを残しておきたくなりました。

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今から6年前、2002年の8月でした。
わたしはダイビング仲間3人と伊豆・下田へと向かいました。潜るのは神子元。お目当ては当然、ハンマーヘッド・シャークです。

その仲間とは何度か一緒に潜ったことがあるので、気心も知れていて前日から和気藹々。ポイントへ向かうボートの上でも楽しい会話が続いていました。

私たちが和気藹々でいる船上で、ポイントへ向かう途中にブリーフィングが行われました。

「神子元の海中は、上層部と海底近くで潮流が異なる事があるので、必ずバディ、そしてグループごとに水深8メートルで合流すること」

わたしはその時、嫌な予感がしました。
私のバディ氏は、ブリーフィングを聴かずに同行者と話をしていたのです。

エントリーの際にわたしがバディに確認すれば良かったのですが、私もまだ未熟でそれどころでは無い時期だったのです。自分の事で精一杯でした。

わたしとバディ氏はほぼ同時にエントリーしました。
そして私はブリーフィング通り水深8メートルで一旦停止。
ところが………。

バディ氏はどんどん潜行して行きます。
彼はいつも先にエントリーして、海底で仰向けに寝て同行者を待つクセがあるのです。

「アッ、ヤッパリ聴いて無かったナ」と、その時に気付いたのですが、もうどうしようもありません。

ちなみに上の画像は、この時のものではありません。昨年のロタ島でのワンカットです。
この時、透明度は5?7メートルほどでした。せめて上の写真くらい透明度があれば同行者の姿も見えて少しは安心できるのでしょうが、何も見えないのです。

バディ氏の姿はアッという間に見えなくなりました。わたしの身体はどんどん流されています。
私は悩みました。バディ氏の後を追うべきか、これから潜行してくる仲間を待つべきか。
しかし、ほんの数秒迷っている内に私の身体は流され、周囲は深い青、何も見えなくなりました。

残りの2人はエントリーに手間取っているのか、わたしの水深からでは海面すら確認出来ません。


何も見えない海中でわたし一人です。


しかも身体は潮流に乗って流されているのです。

もの凄い恐怖感でした。

一人で夜の海に潜っているような恐怖でした。



以来、わたしのBCのポケットにはフロートが、インフレータには水中ホーンが装備されています。

エッ!? その後どうなったか、ですって?

わたしはこれを書いているのですから無事に助かったのは説明するまでも無いですね。

わたしのバディ氏は別のグループにくっついて行き、そのままダイビングを続けました。

そして同行のあと二人は………。
その内の一人がイントラなので、彼の名誉のために記するのは止めておきます。
つまり間違った判断をしたのですね。

聞かないでやって下さい。彼のために。



追記:誤解を招くと困るので記しておきますが、そのイントラ氏は私のこのサイトとリンクを結ぶイントラ君ではありません、念のため。



当たり前と言えば当たり前なのですが、最近は愚息どもも自立し始めたために彼らと1週間近く顔を合わせないこともあります。

なので私の帰宅が早い時などは、かみさんと二人だけの夕食になることが時々あります。

つがいになってン10年、夫婦とは不思議なものでこれだけ永く共に生活をしていると言葉が必要無くなります。


わたし  「ン。」

かみさん 「ン?」

わたし  「ンッ!」

かみさん 「ホイ」 (っと手ふきをよこす)


“ン”の発音とイントネーションだけで会話が成立します。

これは日常生活ならほぼ全て、活用可能です。



最近よく固有名詞を忘れるのですが、お互い言葉に出てこなくても、


「あれ、ちょうだい。」

「どれ?」

「ほら、あれだよ!」

「アッ、それね」


で済みます。

手渡された物が求めていた物で無かったことは滅多にありませんから、不思議です。

日頃からそれほど中身の詰まった会話はしていない……って事でしょうか?







今週は何だか更新が頻繁ですが、決して仕事がヒマなわけではありません!

さて。
ラーメン屋を繁盛させるにはオープンした際にサクラを使って、しばらく行列を作ると良い……という話を何かで聞いた記憶があります。

数年前に浅草の方のラーメン屋に連れて行かれたことがあります。美味しいから、と。
お店に着いたとき、店外に行列が出来ていました。けれどその大半がその店を経営する企業の社員だったのです。社員には割引サービスがあるそうで、それで行列が出来ていました。c5904375.jpg

味は………。行列に並ぶほどではなかったです。

列に並んで待ってまで何かを食す、というのはラーメンであれ何であれ私の流儀に反するのですが、昨日はちょっと時間を持て余してしまったので、日頃から行列が目に付く右写真のラーメン屋に並んでみました。あれ? やっぱりヒマなのか? f(^_^;)

神田・小川町の『つじ田』というラーメン屋です。この時、すでに午後2時で昼のピークを過ぎていましたが、ご覧ごとくの行列です。
(店外にこの人数だと待ち時間はおよそ15分と判明)

好みの問題もあるのでしょうが、正直、美味しくなかったです。
スープは煮干し系のダシで、コッテリとしたスープでした。麺は太めのチリチリ麺。スープをお代わりしている人もいましたが、私には粉っぽくて美味しいとは思えませんでした。

  「ありっしたァァ!」


  「っしたッ!」

という難解な掛け声(ありがとうございました、と言ってるのでしょう)の、やたら店員さんの威勢の良さだけが印象に残りました。


ちなみにこのお店の数軒先に「きなり屋」というラーメン屋もあります。
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行列せずに食べられるので、何度か入ったことがありますが私はこちらの方がずっと美味しいと思います。
いわゆる正統派のラーメン屋です。

値段もごく普通のラーメンの値段です(確か普通のラーメンが600円)。

時々、トッピングを入れると1000円を超える値段のラーメン屋に出会いますが、ラーメンで1000円超えるのは、ナンダカナァ?って思いません? 高級中華料理店じゃないんですから。




昨年の暮れにゴルフ・コンペがあったのですが、その時に特別賞でデジカメを貰っちゃいました。
ニコンのクールピクスです

「何て運が悪いんだ」という人がいます。
何がどのようになって(ならなくて?)“運が悪い”のか判りませんが、申し訳ないのですが私は運が良い方だと感じてます。

しかし、ことこの件に関しては、実際のところ果たして運が良いと言ってよいのか甚だ迷ってしまいます。b7bf1279.jpg

何故ならその年(昨年)、我が家では2台のデジカメを購入したばかりだからです。

どうせ戴くなら別の物が良かったのですが……。
しかし、何も戴けず手ぶらで帰ることを考えれば“運が良い”と思わないといけないでしょうね。

こういう事で運を使いたくは無いのですが、ゴルフ・コンペなどではよく賞品を戴きます。
「タカラガイは手ぶらで帰った事がない」なんて参加者に言われることもしばしばです。
確かにそうかもしれません。

でも、先の運が良いか悪いかなんて考えようなんだと思うのですよ。
3台目を貰った私もそうですが、貰われたクールピクス側から考えても不運ですよね。もっと活用してくれる人に貰われれば良かったはずです。

でも、誰にもあげません。やっぱり私が使用します。ケチと言われようが、それが彼女(クールピクス)と私の運命なのです。だから、いつもポケットに忍ばせるお供にしようと思ってます。


            ……………閑話休題……………


首の痛みが取れないので外科に行ってきました。
薄々感づいてはいたのですが、やっぱり頸椎がガタガタになってました。
その昔、痛めた箇所がちょっとした寝違いで悲鳴をあげ始めたようです。

しばらくこの痛みと一緒の生活が続くかと思うと気が滅入ります。

寝返りを打つ度に激痛で目が覚めてしまうし、首を動かす事もままなりません。
この寒さでしばらくゴルフと縁が無くなるのがせめてもの救いです。

左に顔を向けられないので、左サイドだけしかプレー出来そうに無いのですが、今週末、サッカーをするのは無謀というものでしょうか?



本日、会社の年中行事である新年のご祈祷を受けに、神田明神へ行ってきました。

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それはさておき…………

前回チョコットだけ昔の仕事の事を書いた際に、実は過去に経験したアルバイトのことも書いたのですが、途中で削除してしまいました。

なので今日は、削除してしまったアルバイト遍歴のことなどを書き残しておこうかと思います。


初めて自分でお金を稼いだのは中学3年の時です。それまでに家の手伝いをしてお小遣いをもらったことはありますが、初めて他人様からお金をもらったのがこの時です。

家から徒歩2分ほどのところにあったゴルフ練習場でのバイトでした。学校にバレればまずい事になるのですが、私の両親は自分で金を稼ぐことは大切なことだから学校なんか気にしなくていい、と私がバイトすると言ったら嬉しそうな顔をしたのを覚えています。
ゴルフ練習場のバイトは、あまりに時給が安くて(中学生を働かせてくれるだけマシ?)結局、1年ほどで止めてしまいました。確か時給180円だったと思います。
いまではそのゴルフ練習場はマンションになってしまいました。

その次にやったのが地元の肉屋さんです。このバイトは高校?大学と冬場を中心に長く続きました。
この肉屋のバイトの合間に酒屋の配達、店内装飾(深夜のマネキン移動)、ビルの解体、家庭教師、ボッカ(山小屋への荷揚げ)、変わったところでは映画やテレビのエキストラもやりました。

映画は斎藤耕一監督の『旅の重さ』です。高橋洋子主演で与那国島にロケが来て、その時船の乗客として駆り出されました。
DVDが発売されてますので、当時の私に会えます。高橋洋子が島を離れるシーンで私も一緒に船のデッキから手を振ってるはずです。

テレビのエキストラはいくつか出たけど記憶に残ってるのは『太陽に吠えろ!』だけです。走り去る暴走族役でした。

あとは旅先で資金が底をつき、北海道の牧場で働かせてもらいました。白馬のユースホステルでも2週間ほど働かせてもらいました。

あの頃は「済みません、お金が無くなったので働かせてください」というと、結構仕事にありつけたのです。今思えば、何とものどかな良い時代だったなぁと思います。
いまの時代にオートバイに乗ってやって来た若者に「働かせて」と言われて仕事を与えてくれるところが果たしてあるでしょうか?

でも、そんな事をお願いするような若者も、いまの時代ではいないのかもしれませんね。
我が愚息達もバイトはしますが、それ以上に遊びや勉強の方が忙しそうです。勉強も大事だけれど、このような経験はもっと大切だよ、と私は言っているのですけど。

学生時代に色んな仕事を経験出来て、本当に良かったと思っています。
その時の経験が今の仕事に役立っていると思います。それは仕事の技術的な事ではなくて、人との接し方です。

全ての仕事は人との関わり合いの中で生まれるわけですから、人とのコミュニケーションが上手くいかないと仕事になりません。どんなに素晴らしい技術や企画力を持っていても、コミュニケーションが上手く取れなければ、まさに豚に真珠、ネコに小判…ですよね?
まだ私は「タカラガイに宝石」とは言われていないと思うのです、多分………。




もうずっと昔の話なんですが………。
社会人になって数年が経ち仕事が楽しくなり始めた頃に、私にはちょっと自慢できる特技が備わりました。

それは、電話の受話器を左の耳に当てて相手との話をしながら会話とは関係ない全然別の内容の原稿を書き、その時に右耳に飛び込んできた別の話題の間違いを、電話の話を中断して指摘し指示を出す…というパフォーマンスが出来たのです。

一人三役を同時にこなしていたのです。同時に3つの事を思考していたことになります。ちょっとスゴイと思いません?

今ではそんな芸当、どうやっても出来ないんですけどね。
それ以上に一つのことすら満足に出来ずに悩んでいるのが現状です。

あの若かった頃、何であんな芸当が出来たのか不思議でなりません。
しかしそれは私に限った事ではなくて、当時の職場ではその様な芸当が出来た先輩や同僚は他にもいました。

結局は環境なのかな…とも思うのですが、果たしてその様な環境に再度自分の身を投じた時に同じ事が出来るかというと自信がありません。

いまもう一度、一人で何役かこなせるようになりたいなぁ…と思う自分がいます。
しかしその一方で、そんな事が出来ていったいどんな意味がある、一つの事に集中出来る精神力を持て! という自分もいるのです。

あの頃の自分は凄くピリピリしていたように思います。
まるで全身むき出しの神経のような。

もしも私のそばにその様な人がいたら、わたしは気を許すことが出来なくて、とっても疲れてしまうだろうし、きっと近づきもしないと思います。

人から避けられるのは嫌なので、ピリピリするような事はせずに一つのことに集中できるようになろうと思うのですが、どうしても意識が集中できず散漫になってしまうのです。
ひょっとしてDNAなんでしょうか?



話は突然に変わるのですが、日曜日の朝起きると首に違和感を感じました。
左半分が張ったように鈍痛があるのです。いわゆる“寝違い”ってやつです。
昨日は我慢できる程度だったのですが、今朝になったら悪化していて左に顔を向けられないばかりか上下に動かすことも出来なくなってしまいました。

ベッドから抜け出る時は俯せになって足を降ろしてからでないと立てません。寝返りうつ事自体が激痛です。顔を洗うのも歯を磨くにも痛みが走ります。顔を動かせるのは右方向に15度ほどだけです。

借金で首が回らない…って言いますが、それは脇目もふらずに働かなくてはならない…って意味なんでしょうか?
借金したって顔くらい洗えるでしょう。でも、わたしはそれすらままならないのです。

道路横断の際には、顔が動かせないので身体全体で左右確認しなくてはなりません。まるで駅員さんの指さし確認を、ホームではなく路上でしている変なオッサンです。
周囲の人の怪訝な視線をヒシヒシと感じます。

どうすればこの症状は治るのでしょうか? 
ご存じの方いらっしゃいましたらどうか救いの手をm(_ _)m









先週、東京郊外の都市まで出向きました。
駅に降り立つと東京より1?2度気温も低く感じました。

目的の場所まで、行きはタクシーに乗りました。
同行者がいましたが私が先に乗り込んだので当然、運転手さんの後に座ることになりました。
行き先を告げ走り出すと………。

臭うのです。

ちょうど電車の座席に座った目の前に、購入して1度も洗った事の無いようなジーンズを履いた若者が立ったときのような……。
そうです、汗と体臭が入り交じりすえたような、あの匂いです。

目的地まで息を止めていられるような距離でもなく、5分ほど我慢を強いられました。
(息を止めていられるような距離だったら歩いてますね)

そしてその帰路。
今度はバスで駅に向かいました。

そのバスは“後乗り、降車時前で支払い”システムのバスでした。

終点の駅に着いて、私の前にいた同行者が支払う際に、

「そこに立たないでください!」

バスの運転手が語気荒く言いました。その声は当然、インカムのマイクを通じてバス車内、多分車外にも流れました。

後にいたわたしは彼が言う“そこ”が何処を指すのか判りませんでした。同行者も困った顔をしてました。

そして今度は私が支払う番になって、私は小銭が無いことに気付きました。
乗車時に取った切符のようなものと千円札を出し、「ハイ」と運転手さんに渡そうとするとまた語気荒く、

「そこに入れて下さい!」

流石にムカッと来ました。“そこ”が何処か想像できたのですが、わざとノンビリした口調で、

「そこ、ってのは何処ですか?」と聞き返してあげました。

するとやっと運転手はハンドルから手を離し手で両替機の札入れ口を指しました。


タクシーの運転手さんは、駅のタクシー乗り場の列に並べばいつかはお客がやってきます。
このバスの運転手さんも、投書でもされない限り会社側はこんな対応をしているとは気付かず、首を切られる事も無いでしょう。
両者共に競争原理が働かない世界で生きています。

折角、競争しなくて良い世界に安住しているのだから、せめて自分の仕事くらい楽しく、そして人に喜ばれるようにすれば良いのに、と感じたのでした。

仕事をしたくても仕事にありつけない人もいるというのに、なんとももったいない事だな、と思ったのでした。





年末、年始と例年の事ではありますが猛烈な忙しさでした。やっと一息つけて久しぶりにブログを書く時間が出来ました。

皆さんはどんなお正月を迎えられましたでしょうか。

さて表題ですが、おせち料理というものを食べなくなって随分経ちます。

おせち料理は、せめて正月くらいは炊事から解放されたいと、奥さん達が考え出したものだそうですね。
だから、単に日持ちする料理を用意するだけでは「手抜きだ!」と許されなかったのでしょう。
黒豆は“マメに生きるように”、海老は“腰が曲がるほど長寿に”、昆布巻きは“喜ぶ”で、カマボコは“板につく”…と、それぞれに無理矢理意味を持たせたのだと思います。

かみさんも私もおせち料理があまり好きではないので、共に生活をするようになって一度もおせちを用意した記憶がありません。
黒豆、昆布巻き、カズノコ、カマボコくらいは用意しますが、それだって元旦に食べきれる程度しか買いません。

重箱にしつらえたおせち料理は、見た目には綺麗ですけど3日もすると飽きてきます。
その昔「おせちも良いけどカレーもね!」というテレビCMがありましたが、まさにその通り! おせちよりもカレーの方が私は好きです。

しかし今年、正月に出てきた我が家の雑煮は豚骨味のインスタント・スープに焼き餅が入っただけのものでした。

正月くらい炊事から解放してあげたいとは私も思いますが、ここまで手抜きされると折角の正月の雑煮も、残業時の夜食のようです。
でもきっと、連日酒浸りの私の健康を気遣ってくれてのことでしょう。
(実は冷蔵庫の中が空っぽになっていたからなのですが…)

来週からは連夜、新年会が続きます。
毎朝、インスタント・スープに前夜の冷や飯が入っていないことを切に祈る今日この頃です。




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