私の人生観に影響を与えた、こんな話がある。

とある南海の小島に老夫婦がやってきた。
この老夫婦はかつて若かりし頃にこの島を訪れ、その美しさに魅了されて「晩年はこの島に永住し、あの椰子の木陰でノンビリと読書でもして過ごしたい…」と夢を抱き、がむしゃらに働いてお金を貯め、やっとその夢を実現出来る様になりやって来たのだそうだ。

老夫婦にとって、この南海の小島で日がなノンビリと暮らすことが終生の夢だったのだ。
ところが終生の夢であったこの南海の小島の椰子の木陰は、いつも一人の子供に占領されていて、自分達が木陰に入ることが出来ない。痺れを切らした老人は、ある日その子供に聞いたそうだ。
「君はどうして何時もこの椰子の木陰に居るんだい?」
「お爺さんはどうして、そんな事を聞くの?」とその少年。
お爺さんは答えた。「その美しい景色を眺めながら過ごしたいのだよ。それを目標に頑張って働き、苦労してやっとここに来れた。君は今そんな事をしていると、年を取ってから苦労するよ」と。
すると少年は、こう言ったそうだ。
「お爺さんがやりたかった事を、今しているだけだよ。苦労は後回しにしているだけさ」。

仕事は頑張るべきで苦労してはいけないと思う。仕事は楽しみであり、生きるための(目的を達成するための)手段であるべきと思う。仕事が目的になってしまってはいけない。山登りと似ている。登る過程(頑張り)を楽しむのが主の目的で、登頂することは二の次だ。仕事も一緒だと思う。ただ、仕事は結果が最優先される。だから楽しく働いて結果を出すべきだ。

1日24時間のうち、自覚して行動出来る時間は16~18時間しかない。しかもその内の半分以上を仕事で費やしている。人生の覚醒している半分以上を仕事で費やしてしまっているのだ。それが詰まらないというのはとても悲しいことだ。このお爺さんは、決して仕事に対して詰まらなかった…と言っている訳ではない。ただ、このお爺さんに私の父の生き様がダブるのだ。

父は決して仕事が嫌なわけでは無かったと思う。むしろ楽しんでいたと思う。けれど、父は自分のやりたかった事(晩年になってだが)が出来なかったのではと私は感じている。本人にとってはあまりにも突然の死だったから。

明日も確実に生きていると、あなたは言えるだろうか?  多分、生きているだろうけど“絶対”ではない。だから私は、今現在の仕事も趣味も全力投球で接したい。かといってワーカホリックでもないし、ボーっと1日を何も考えずに過ごす楽しみ方も知っている。
やりたいことがあったのに、それを実行しなかった事に対して、“やらなかった”ではなく“やれなかった”という言い訳をするような人生だけは送りたくないのだ。少なくとも死に際で未練を残ししたくない。
私の理想は「ア~、楽しかった! じゃあね、バイバイ!!」と笑顔で死んでいける人生なのだが、果たしてこの願いが叶うような人生を、私は送れるだろうか。