とある貧しい島を訪れたときに、子供たちの歓待を受けた。
みな着ているものは一様に粗末な物だったけれど、その中の一人の男の子のズボンの股の部分が破けていて、そこから可愛らしいオチンチンがポロリとはみ出していた。

私がその事を指摘すると、その男の子はとても恥ずかしそうに逃げていってしまった。
「失敗した!」と思ったけれど、もう遅かった。

当たり前だけど、私は別にその子を辱めるために言ったのではない。
シンボルがはみ出ていることを教えてあげたのだ。

その男の子にとってはオチンチンが覗いていた事が恥ずかしかったのではなくて、ズボンがボロボロだったことが恥ずかしかったのだと思う。
何故なら中にはスッポンポンの子どももいたのだから。

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いま日本では、恥ずかしさに対する観念が崩れているように感じる。

目の不自由な人が歩いていても助けるどころか道を譲らない(気付かない)。
食べ歩きを平然と行い、しかも人目も気にせずゴミを路上に捨てる。
タバコもしかりだ。
ペチャクチャと話しながら歩き、人にぶつかっても何も言わないどころかにらみつける。
満員電車の中で化粧するのもなんのその。
お金が無いわけじゃないのに給食費を払わない。

取り上げだしたらキリがない。

このような人々が恥ずかしいと感じることは何なのか?

人は恥ずかしいと思うから礼節を大切に思い、約束を守り、何かと頑張り、人との関係を大切にし、親や先輩を敬うのではないか。

だいたい街を歩いていると、緊張感の欠落した人々の多いことに気付く。
顔は前を向いて歩いているのに、意識が周囲にいってない。だから、ぶつかる。
歩きながら携帯電話で話すどころかメールを読んだり、打ったり。

ピリピリしている必要はないけど、少しは周囲に気を配るべきだろう。

私にとってはそのような行為、姿はボンクラの象徴であり恥ずべきことなのだが、そうではない人が多いということだ。
日本の伝統や文化はいずれ無くなってしまうのだろう。
(※写真と本文は関係ありません)