きょう通勤電車が市ヶ谷のお堀端を走り抜ける際に、車窓からヒラヒラと飛ぶ一匹の蝶が見えた。
11月も中旬というのに、蝶が飛んでいるとはまさに異常気象の所為だろう。

ヒラヒラと舞う蝶を見るうちに、唐突に“ギフチョウ”の姿が脳裏に浮かんできた。
ギフチョウをご存じか? 日本では本州の高山地帯、北海道に生息する蝶でなかなかお目にかかれない。

その昔、北海道浜頓別のベニヤ原生花園でこの蝶を初めて見つけた時に、
「アッ! ギフチョウだ!」と声を出したら、たまたま側にいた男性が、
「あなたも鳥が好きなんですね」と応えた。

前夜、同宿した民宿の主が鳥好きで、夜通し北海道の野鳥の話をしてくれていたのだ。
しかし………。ギフチョウは岐阜蝶とは書くが岐阜鳥ではない。



話は唐突に変わって先週の日曜日、バスに乗っていたら大学生らしき若者が二人乗り込んできた。わたしの後の席に座った彼らの会話。

A男「いやぁ、最近の若い奴らは何も知らないね」(君たちも十分若いよ)
B男「どうしたのさ?」
A男「前夜祭の準備をしようと言ったら、どんな野菜ですか? だって」
B男「ギャハハ、前野菜かぁ。意味、通じるジャン」(通じてません)

先のギフチョウもこのゼンヤサイも、お互いに同一の認識があって初めて会話が成立する。
単純に言葉を覚えれば済むことだろうけど、わたしは最近、どうもそれだけでは済まないコミュニケーション下手な若者が増えていると感じる。

友人に誘われてSNSに入った。アクセスすると中には数十分単位でログインしている人もいる。
彼らにとってはきっと、携帯電話メールやSNSがコミュニケーション・ツールなんだろうと思う。

それはそれで便利だと思うし(特に遠距離との意志疎通)、文字のコミュニケーションを否定する気は無いけど、やっぱりお互いの顔を見ながら会話をするのが一番だと思う。
そうすることで言葉を知り、語彙を覚えていくのではないかと思うし、相手の感情を読みとってこそ深いコミュニケーションが生まれると思うのだ。いくら顔文字を駆使しても文字のコミュニケーションでは相手の感情を読み取ることは難しい。
わたしが書くこのサイトの駄文だって、どれだけ自分の意図したことが伝わっているか甚だ疑問だ。
そして文字での自己表現は言葉に比べて強いものになりがちでもある。
文字に振り回されては、それこそ話し(対話)にならない。


乏しいボキャブラリィを駆使して英語で話す機会が時々ある。
その際にわたしの言い分は先方に伝わっても、言葉の意味が判らず先方の言い分が理解できないことがある。これでは一方的な会話であってコミュニケーションとはいえないだろう。
それでも判らない単語が出てくれば辞書で調べるし、時には意味を説明してもらってわたしは単語を覚え、そして会話が成立していく。

初めて会った見知らぬ人との会話は楽しいものだ。気心知り合った仲間との会話はもっと愉しいものだ。

これから忘年会シーズンに突入する。1年ぶりに杯を酌み交わす人もいる。

楽しみだ。