タカラガイの独り言

ちょっとした出来事やダイビングや旅のことなど徒然に。

2005年04月

「私は日本国をこよなく愛します。それ故に、憂うべき騒音と公害を撒き散らすトラックに石を投げつけ、走行を妨害します……。でも私は無罪です」
こんな論理が通るわけ無いことは中国の皆さん、ご承知のはずですよね。

この度の反日デモ参加者は、殆どが私の息子と同等の若者達のようだ。日本の中国侵略時代とは縁の無い世代だが、彼らが日本の戦争責任に言及するのは中国の教育がそうしたからだという。本当だろうか? 

本当だとしたらイラクの自爆テロと変わらない。
抑止力を持った国家のもとでの思想統一教育ではないか。ほとんど恐怖政治下の教育に等しい。かつて日本もその様な教育をされていた時代があったと聞く。60?70年昔の事だ。

近代国家の仲間入りをした(してると思われる)中国で、その様な事が起こりえるのだろうか? 信じ難い事だが、もしも本当なら日本より60年以上も教育で遅れている中国が、日本の教科書に指図していることになる。なんか腑に落ちない。

教育とはマインドコントロールではない。色んな思想やものの見方、答えの導き方や知識を教え、自らが思考し答えを得られるように鍛えることだ。

デモの群衆はインターネットの掲示板で集まったと聞く。ネットを活用しているのに、世界における自分たちの立場や行動がどの様にあるのか分からないというのだろうか? 
規制を受けない唯一の情報網なのに(中には一方的な情報もあるが)、世界を見ないでそんな使用方法しか知らないというのか。
言語の問題なのだろう。いくら世界中をつなぐインターネットだって北京語や日本語だけの情報ばかり追っていてもダメなのだ。それではインターナショナルなこの世界で、所詮、井の中の蛙…で終わってしまう。

ちゃんとした教育がなされないことは、人にとって一番の不幸だと思う。知識や頭脳が鍛えられないこともそうだが知性を得ることが出来ない。知性は教育を修得した後からついてくるものだ。

自らが考えて自らの答えを持った上で生きることが出来ない事は、今の世の貧富の格差以上の問題だと思う。
貧しいが故にちゃんとした教育を受けられない。だから、なかなか貧困から抜け出せないという悪循環が生まれている。頑張っても頑張っても、その努力の結果を加速させるための知識がない。だからゆとりも生まれない。ゆとりが無いから新たな知識を得る時間も無い。どうしようもない悪循環だ。

「愛国」という主義の元での教育は、かつての日本のように行き過ぎさえしなければ非常に大切なことだと思うが、それ故に何をやっても“愛国無罪”ですまされる教育など存在するわけはない。

なんだか小難しいことを考えすぎて、熱が出てきた(~_~;) (先週から風邪で高熱が続き、そのせいで小賢しいことを書いたようですが、熱に魘されていた所為とご容赦m(_ _)m )



アスファルトの隙間から生えてくる花を見つけて、その小さな生命力に感動することは良くあることだけれど、昨日、買い物の途中で見つけた小さな花は、本当に可憐で美しかった。2307d3c6.jpg


花びらの大きさはおよそ1センチほど。アスファルトと下水道のフタの間からリンと太陽に顔を向けていた。

しかし、年をとるにつれて雨に濡れた新緑の葉っぱや小鳥のさえずり、この様な可憐な花などに感動するようになった。
私も枯れてきているってことなのだろうか(~_~;)

昨年の暮れ(だったと思う)、私のホームページ上の画像を借りたいというメールが届いた。
出版物に利用したいとのことだった。私自身、編集経験もあるので快諾し、印刷に耐えうるよう高解像度ものを送ってあげた。

先週、その掲載本が送られてきた。忘れていたので、封を開いた時には何で送られてきたのか分からなかった。何故、お菓子作りの趣味はない私の元に?……と。

ペラペラとめくる内に思い出し、今度は何処に掲載されているかと目を皿のようにして捜したら、タヒチのページで大きく使われていた。巻末には“写真協力”として、私の名前も記載されていた。
実際の色調よりちょっと画像が暗かったけれど、かなり大きく2点も掲載されていたので、正直嬉しくなってしまった。

「どんな国?どんな味?世界のお菓子・アジア編」(岩崎書店) という本。お母さんが子どもと一緒にお菓子を作ることを目的にした本です。興味のある方は是非、ご購入をm(_ _)m 

かつては編集の仕事をしていたので、自分の記事も手前カメラマンとして自分で撮影した写真も印刷物になっていたので、特別の感慨はないのだけれど、つくづく「下手な鉄砲も数打ちゃ当たる」「下手の横好き」などという言葉が浮かんでくる。

ダイビングの虜になって、地上では絶対にあり得ない世界を記録に残したく、水中写真を始めた。水中では身体がユラユラするし、サカナはポーズを取ってくれないし、で数百カットを撮っても使用に耐えうるのは数カット程度しかない。
そんな中から私の写真を見つけだしていただき、ハードカバーの本に掲載して頂いた事が驚きだ。
とは言っても、使用して頂いた写真は陸上のもので水中写真ではないから、実は心はビミョーなのである(^_^;;;

中国での反日感情が高まっている。
日本大使館への投石に始まり、日本製品の不買運動、果ては同胞・中国人が経営する日本食レストランまでもが襲撃されているという。
尖閣諸島問題や、過去の日本の侵略問題など色々あるようだけれど、その根底には日本の国連安全保障理事会への常任理事国入り反対があるらしい。

私は正直言ってその様な事に詳しくない。そんな人間がこの様な形で批判めいたことを書いてはいけないとは思うのだが、私のような低レベルの人間が感じ、考えることも必要では無いかと、無理矢理正当性を掲げて書くことにする。

【日本の常任理事国入りを反対する中国に対しての感想】
過去に侵略的戦争を行った国=日本が常任理事国となることが許せないらしい。
侵略戦争をするような国(した、という過去形ではない。現状においてだ)が理事国入りをすることには私も反対だ。しかし、いつまで過去のことを引きずって生きているのだ、中国は。
世界で唯一の被爆国である日本は、その敵国=アメリカと仲良く(異常なほどだけど(~_~;))することで、今のように発展してきたのだ。もしも、中国(や韓国)のように過去の事を謝罪しろなどと言っていたら、今の日本は無かったはずだ。過去を振り返ること(過ちを糧にすることは別だが)や、自分以外に対する怒りからは何も生み出さない。

日本が常任理事国入りすること自体に、私自身が意義を見いだせないので、なぜ中国がそんなに騒ぐのか理解できない。
アメリカの「テロ国家の廃絶」という大義名分の元の殺戮行為すら止めることが出来なかった国連安全保障理事会という存在は、今や各国が自国の国益のために利用するための存在ではないのか? そこに日本が理事国入りしてどうなるというのだ。日本は自国のメンツだけで常任理事国入りしようとしているとしか私には思えない。金満大国ニッポンが、さらなる国益を得んとすることが気に入らない…というのなら理解できるが。しかしそれは、むしろ中国…ではないのか? だからこそ急速な貧富格差が生まれているのではないのか?

【日本製品不買運動&“日本”という文字に異常反応する事について】
日本における対中貿易高はすでにアメリカを抜いたらしい。その様な経済状況下において、日本製品の不買運動は、日本経済を考えれば芳しいことでは無いのだろうとは思う。けれど、そんなこと言ったって所詮、需要と供給の問題なのだから、日本製品がどうのとか中国製品がどうのというレベルの問題ではない。
その商品が必要な人間は、誰がどうこう言おうが買うものだ。私はあまり物欲が無い方なので、値段で買うことは無い。欲しいもの、必要なものは高かろうが安かろうが買う、ただそれだけだ。
北朝鮮の拉致問題で北朝鮮輸入品の不買運動も見かけたけれど、安いからとどうしても北朝鮮商品しか買えない人は買うはずだ。(ただ、私が知る限り北朝鮮の輸入品は違法の麻薬以外ではアサリ、カニ、松茸……、無くなっても困らないものばかりだ)

中国に工場を構えた日本企業には申し訳ないが、そんなに日本が嫌いならデモ何でもして(投石は止めろ!)本当に日本を排除すればいい。それで一番困るのは日本の企業よりも中国人、あなた達の方だと私は思う。
日本企業は別の国、たとえばベトナムとかインド、ブラジルに工場を移せば良いだけの事だ。後は販路をどうするか、だ。

それにしても個人主義の国にして、あの中国人の団結力は凄いと思う。
日韓共催ワールドカップ・サッカーの時の韓国もそうだった。開催の数ヶ月前に韓国人数人と話す機会があった。その時に彼らは皆一様に「サッカーなんて韓国人は誰も気にもとめていないよ」てな事を言っていた。それなのにどうだ? 蓋を開けてみれば韓国の道路は真っ赤に染まっていたではないか。日本イレブンが敗退したとき歓声を上げて喜んでいたではないか。

インターネットの書き込みと、携帯電話のチェーン・メールであれだけの民衆を集められる国は、ある意味で凄いと思う。
果たして日本で、その様な“心を一つ”にする事が出来るような事柄ってあるだろうか? 人心をまとめることの出来る人物が日本にはいるのだろうか? せいぜい宗教というの名のもとにマインドコントロールをして少女に悪戯をするのが関の山だ。日本が憂うべき問題は、ここにあると思う。
みんなの心が一つにまとまったときの、あの感動を知る人はどのくらいいるのだろう? 日本人が中国のように一致団結したら、世界を楽々動かせると私は思うのだが…。

かれこれ10年ほど前、サッカーの試合で頸椎を痛めてしまった。
ゴールを背にした状態で胸元にパスが来たので、胸でトラップしてそのままオーバーヘッドでシュートをした際に後頭部から落下して痛めてしまった。
落下直後、全身に電気が走ったようになり、しばらく立つことが出来なかった。その瞬間は「アッ! 背骨を骨折したか!?」と思った。

以来、左手上腕部から肘を抜けて小指と薬指にかけて何時も痺れている。頭部に衝撃を受ければ全身に痺れが走る。だからヘディングは極力しない。

ヘディングさえ避けていれば何とかなっていたのだけれど、昨日はミニゲームの際に少し激しいショルダー・チャージをしたら“ピシッ!”という首元の音と共に電気が走った(~_~;)

昨夜から首の付け根に強烈なハリと痛みが残って、首を傾けることが出来ない。就寝の際やベッドから起きる際に首元に激痛が走るので、片手で頭を押さえて反対の手で身体を倒したり起こしたりしなくてはならなくなった。

ヘディングなどをしないことで首まわりの筋肉が衰え、ショルダー・チャージをした際の、急激な衝撃に一瞬首の力が入ったためだと思う。

なんだか情けないやら悲しいやら……。この歳でサッカーをやること自体が無謀なことなのか、はたまた自分の体力が極度に落ちてきてしまっているのか……。

無理さえしなければサッカーは素晴らしいスポーツだと思うけれど、ついつい熱くなってしまって、若い頃のような激しいプレーをしてしまう。自制しようにもそれがサッカーの面白さでもあるのだから困った。サッカーに変わる私に合った良いスポーツはないものか……。

最近よく夢を見る。
今朝もいくつか夢を見た。夢を見て目が覚め、またウトウトすると夢を見ている。

今朝の最後の夢はカミさんと何かを話している夢だった。何を話していたのか起きたときには忘れていて、便所で必死に思い出そうとしていたら、フト別のことに気が付いた。

夢の中で話していた相手は確かにカミさんだったけど、彼女が話していたことは、私の頭の中の事なのだから私の言葉なのだ。(それなのに思い出せない(~_~;) )

と言うことは、もしも数人が私の夢の中に登場してきて色々と話したとしても、それは全て私自身の言葉だってことだ。
これは、ある意味で凄いことじゃないか? もしも、夢の中で誰かと議論していたとしたら、本当の私はどっちなのだ?

そんな事を考えていたらちょっとドキドキしてきちゃって、明日の夢が楽しみになってきたのだけれど、もしも夢の中でケンケンガクガクの議論なんかしちゃってたら、それは分裂症って事なのかしら?

分裂症にはまだなりたくないけど、自分の深層心理を知って見たいような気もして、今夜はディベートの本でも読みながら寝てみようか……。もしも夢の中で議論が始まったとしたら、果たして収集はつくのかしら? ちゃんと議決するのかな? ウ?ム、やっぱり面白そうだ。


今日は自宅で仕事をしている。
ネット関連の仕事は、これが出来るから便利だ。サーバにデータさえアップしておけば、自宅に限らず何処でも作業が出来る。

数年前、ある外注先とプロジェクトを組んだ。ところが仕事が進む途中で彼女らはアメリカへ移住してしまった。「データはサーバに置いて、仕事はメールで連絡を取り合いましょう。大丈夫ですよ!」の言葉を残して。

確かにそうなのだが、彼女たちが通常のデイタイムで仕事をするとなると日本時間では深夜0時から朝の8時くらいだ。
だから彼女たちの作業が進み、途中経過の報告メールが届くのが日本ではお昼くらい。そこで私が中途半端な指示メールを返信すると彼女たちからの質問メールが日本時間では深夜に届く。

もしもここで私が就寝でもしてしまえば、彼女たちの作業はほぼ丸一日停滞することになる。だから私も頑張って深夜に返信メールを書く。
翌朝、出社して直ぐに報告メールが届く。早速、次の指示をメールで送る。その日の深夜には、再び質問メールが届いている。私はまたまた深夜まで頑張って、指示の返信作業をする……。数日の作業で私はヘロヘロになる(~_~;)

2カ所の時差がある国で作業をするから大変なのだけれど、これを日本を中心に考えるなら、日本で作業して残りを中東辺りの国に引き渡す。その国で続きを作業してニューヨークへ残りを送る。N.Y.で完成して日本へ納品する。すると、どうだ! 日本で3日かかる作業も1日で完了するのだ。

自分のクローンが二人いたら……。
サウジとN.Yに送り込み、それぞれが週2日働けばOK! ってな訳にはいかないな(^_^;;;

天童荒太の「家族狩り」を読んだ。
全5巻の長編だが、重いテーマに暗い内容で途中で気が滅入ってきた。滅入ったといっても読むのが嫌になったというのでは無く、人間の嫌な面ばかりが描写されていることで気が滅入ったのだ。通勤途上で読んでいたのだけれど、仕事するのが嫌になったくらいだ(~_~;)

現代社会の歪みを取り上げていて、私自身も意識しているテーマだったので読むことにしたのだけれど、2?3巻あたりは正直、読み進むことが辛く躊躇した。それでも、先を読ませたくさせるあたりは、流石に上手いなぁ。彼の作品は他に「永遠の仔」しか読んでいないけれど、あの時は内容もさることながら構成に驚いた。

今回も似たようなテーマを扱ってはいるけれど、登場人物も多く、それぞれの問題を扱っているのでテーマはもう少し広く、多岐にわたっていた。児童虐待、夫婦問題、教育問題、政治の腐敗や貧富の格差、戦争などを取り上げつつ家庭崩壊を主軸に親子(人間)の絆を描いている。

「永遠の仔」のようなエンディングを期待して最後まで読み切ったけれど、残念ながら期待とは異なった。
「永遠の仔」のエンディングが、ちばてつやの「あしたのジョー」の最終場面だとすれば、「家族狩り」の最終章は、ちばあきおの「キャプテン」といった感じか。
長い物語を読み切った後の充足感は残らなかったけれど、現代社会の問題を見つめ直すには素晴らしい作品だと思う。


インドネシア・スマトラ島沖でまた、地震が発生した。昨年の年末に起きた地震では30万人近い死傷者が出たが、今回は死者700名未満のようだ。津波被害が無かったことが幸いしたのだろう。それでも600人以上もの死者が出たというのは、何という悲劇か。

阪神淡路大震災では、死者は6000人以上、負傷者も4万人を超えていたと記憶するが、今回のスマトラ島沖の地震は、まるで「これでもか!」と痛めつけられているようで心が痛い。未だ前回の死者が埋葬されずにいると聞いた。そんな地域に再びこの様な天災が襲うとは、なんとしたことか。

私は神の存在などを信じる方ではないけれど、それでもこの様な仕打ちが続くと、流石に「神はいないのか!」と考えてしまう。

厳しい自然の元で生き抜く人々が多くいる。それでも、その自然はある時には優しさを与えてくれているのだろうと思う。だからこそ、その地で生き抜く人々は他の地へ移動しないのだろうと思いたい。確かに、今の地を出ていきたくとも経済的要因などで出るに出れない人々も多いだろうと思う。
人は生まれたその瞬間・場所で生涯が決まってしまうのだろうか? 

色んな国を訪れるたびに、自分はなんと恵まれていることかと実感する。私の叔母は出生地の新潟から他県へ出たのが、なんと60歳を過ぎてからだったと聞いた。私のように日本のみならず、色んな外国を見て回れる人はほんの一握りなのだろうと思う。

インドネシアで外国へ行ける人は何パーセントくらいいるのだろう? きっと少ないだろうと想像する。そんな国民が、どうしてこの様に往復ビンタのような仕打ちを受けなくてはならないのか? あまりに悲しく、そして不条理だ。

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