タカラガイの独り言

ちょっとした出来事やダイビングや旅のことなど徒然に。

かれこれ10年ほど前、サッカーの試合で頸椎を痛めてしまった。
ゴールを背にした状態で胸元にパスが来たので、胸でトラップしてそのままオーバーヘッドでシュートをした際に後頭部から落下して痛めてしまった。
落下直後、全身に電気が走ったようになり、しばらく立つことが出来なかった。その瞬間は「アッ! 背骨を骨折したか!?」と思った。

以来、左手上腕部から肘を抜けて小指と薬指にかけて何時も痺れている。頭部に衝撃を受ければ全身に痺れが走る。だからヘディングは極力しない。

ヘディングさえ避けていれば何とかなっていたのだけれど、昨日はミニゲームの際に少し激しいショルダー・チャージをしたら“ピシッ!”という首元の音と共に電気が走った(~_~;)

昨夜から首の付け根に強烈なハリと痛みが残って、首を傾けることが出来ない。就寝の際やベッドから起きる際に首元に激痛が走るので、片手で頭を押さえて反対の手で身体を倒したり起こしたりしなくてはならなくなった。

ヘディングなどをしないことで首まわりの筋肉が衰え、ショルダー・チャージをした際の、急激な衝撃に一瞬首の力が入ったためだと思う。

なんだか情けないやら悲しいやら……。この歳でサッカーをやること自体が無謀なことなのか、はたまた自分の体力が極度に落ちてきてしまっているのか……。

無理さえしなければサッカーは素晴らしいスポーツだと思うけれど、ついつい熱くなってしまって、若い頃のような激しいプレーをしてしまう。自制しようにもそれがサッカーの面白さでもあるのだから困った。サッカーに変わる私に合った良いスポーツはないものか……。

最近よく夢を見る。
今朝もいくつか夢を見た。夢を見て目が覚め、またウトウトすると夢を見ている。

今朝の最後の夢はカミさんと何かを話している夢だった。何を話していたのか起きたときには忘れていて、便所で必死に思い出そうとしていたら、フト別のことに気が付いた。

夢の中で話していた相手は確かにカミさんだったけど、彼女が話していたことは、私の頭の中の事なのだから私の言葉なのだ。(それなのに思い出せない(~_~;) )

と言うことは、もしも数人が私の夢の中に登場してきて色々と話したとしても、それは全て私自身の言葉だってことだ。
これは、ある意味で凄いことじゃないか? もしも、夢の中で誰かと議論していたとしたら、本当の私はどっちなのだ?

そんな事を考えていたらちょっとドキドキしてきちゃって、明日の夢が楽しみになってきたのだけれど、もしも夢の中でケンケンガクガクの議論なんかしちゃってたら、それは分裂症って事なのかしら?

分裂症にはまだなりたくないけど、自分の深層心理を知って見たいような気もして、今夜はディベートの本でも読みながら寝てみようか……。もしも夢の中で議論が始まったとしたら、果たして収集はつくのかしら? ちゃんと議決するのかな? ウ?ム、やっぱり面白そうだ。


今日は自宅で仕事をしている。
ネット関連の仕事は、これが出来るから便利だ。サーバにデータさえアップしておけば、自宅に限らず何処でも作業が出来る。

数年前、ある外注先とプロジェクトを組んだ。ところが仕事が進む途中で彼女らはアメリカへ移住してしまった。「データはサーバに置いて、仕事はメールで連絡を取り合いましょう。大丈夫ですよ!」の言葉を残して。

確かにそうなのだが、彼女たちが通常のデイタイムで仕事をするとなると日本時間では深夜0時から朝の8時くらいだ。
だから彼女たちの作業が進み、途中経過の報告メールが届くのが日本ではお昼くらい。そこで私が中途半端な指示メールを返信すると彼女たちからの質問メールが日本時間では深夜に届く。

もしもここで私が就寝でもしてしまえば、彼女たちの作業はほぼ丸一日停滞することになる。だから私も頑張って深夜に返信メールを書く。
翌朝、出社して直ぐに報告メールが届く。早速、次の指示をメールで送る。その日の深夜には、再び質問メールが届いている。私はまたまた深夜まで頑張って、指示の返信作業をする……。数日の作業で私はヘロヘロになる(~_~;)

2カ所の時差がある国で作業をするから大変なのだけれど、これを日本を中心に考えるなら、日本で作業して残りを中東辺りの国に引き渡す。その国で続きを作業してニューヨークへ残りを送る。N.Y.で完成して日本へ納品する。すると、どうだ! 日本で3日かかる作業も1日で完了するのだ。

自分のクローンが二人いたら……。
サウジとN.Yに送り込み、それぞれが週2日働けばOK! ってな訳にはいかないな(^_^;;;

天童荒太の「家族狩り」を読んだ。
全5巻の長編だが、重いテーマに暗い内容で途中で気が滅入ってきた。滅入ったといっても読むのが嫌になったというのでは無く、人間の嫌な面ばかりが描写されていることで気が滅入ったのだ。通勤途上で読んでいたのだけれど、仕事するのが嫌になったくらいだ(~_~;)

現代社会の歪みを取り上げていて、私自身も意識しているテーマだったので読むことにしたのだけれど、2?3巻あたりは正直、読み進むことが辛く躊躇した。それでも、先を読ませたくさせるあたりは、流石に上手いなぁ。彼の作品は他に「永遠の仔」しか読んでいないけれど、あの時は内容もさることながら構成に驚いた。

今回も似たようなテーマを扱ってはいるけれど、登場人物も多く、それぞれの問題を扱っているのでテーマはもう少し広く、多岐にわたっていた。児童虐待、夫婦問題、教育問題、政治の腐敗や貧富の格差、戦争などを取り上げつつ家庭崩壊を主軸に親子(人間)の絆を描いている。

「永遠の仔」のようなエンディングを期待して最後まで読み切ったけれど、残念ながら期待とは異なった。
「永遠の仔」のエンディングが、ちばてつやの「あしたのジョー」の最終場面だとすれば、「家族狩り」の最終章は、ちばあきおの「キャプテン」といった感じか。
長い物語を読み切った後の充足感は残らなかったけれど、現代社会の問題を見つめ直すには素晴らしい作品だと思う。


インドネシア・スマトラ島沖でまた、地震が発生した。昨年の年末に起きた地震では30万人近い死傷者が出たが、今回は死者700名未満のようだ。津波被害が無かったことが幸いしたのだろう。それでも600人以上もの死者が出たというのは、何という悲劇か。

阪神淡路大震災では、死者は6000人以上、負傷者も4万人を超えていたと記憶するが、今回のスマトラ島沖の地震は、まるで「これでもか!」と痛めつけられているようで心が痛い。未だ前回の死者が埋葬されずにいると聞いた。そんな地域に再びこの様な天災が襲うとは、なんとしたことか。

私は神の存在などを信じる方ではないけれど、それでもこの様な仕打ちが続くと、流石に「神はいないのか!」と考えてしまう。

厳しい自然の元で生き抜く人々が多くいる。それでも、その自然はある時には優しさを与えてくれているのだろうと思う。だからこそ、その地で生き抜く人々は他の地へ移動しないのだろうと思いたい。確かに、今の地を出ていきたくとも経済的要因などで出るに出れない人々も多いだろうと思う。
人は生まれたその瞬間・場所で生涯が決まってしまうのだろうか? 

色んな国を訪れるたびに、自分はなんと恵まれていることかと実感する。私の叔母は出生地の新潟から他県へ出たのが、なんと60歳を過ぎてからだったと聞いた。私のように日本のみならず、色んな外国を見て回れる人はほんの一握りなのだろうと思う。

インドネシアで外国へ行ける人は何パーセントくらいいるのだろう? きっと少ないだろうと想像する。そんな国民が、どうしてこの様に往復ビンタのような仕打ちを受けなくてはならないのか? あまりに悲しく、そして不条理だ。

マッサージに良くかかる。月に2?3度はマッサージのお世話になっている。
パソコンを多用するのが一番の原因だとは思うが、どうも酒の飲み過ぎも影響しているようだ。
肩こりは当たり前。これはキーボードを使ってばかりいるからだろう。(今もキーボードを叩いてる(~_~;) )

ところが最近は背中(健康骨の間から腰にかけて)にハリを、足の裏に疲れを感じる。背中のハリは、マッサージ師に言わせると、胃が悪いそうだ。足の裏は押されて「痛い!」と感じる箇所が毎回一緒で、聞くところによると肝臓と胃のツボなのだそうだ。そうなるとどうも酒の飲み過ぎが原因としか思えない。

節制しなくては…と何時も思いつつ(このブログにも何度か書いた)、タバコは止められたが酒だけは止められない。今も焼酎のロックを手元に置き、チビチビやりながらこのブログを書いている。

明日もサッカー「バーレーン戦」がある。日本が勝とうが負けようが酒は飲むだろうなぁ(^_^;;; それが私の楽しみでもあるのだからどうしようもないのだ。


ダイビングで事故が起きる確率は、経験本数100?200本あたりが一番多いらしい。確かに大分慣れてきて、注意が散漫になるのはこのあたりなのだろうと思う。自分がそうだから。

先週のダイビングで通算140本を越えた。
そして丁度100本目を数えたあたりから、ケアレス・ミスが出始めている。ウェイトを付け忘れてエントリーしたのが3回。フィンを装着せずに潜行したのが1回。ダイブ・コンピューターを船上に残したまま潜水したのが1回。
流石にサングラスのままで潜ったり、シュノーケルをくわえたままで潜行した事は無いけど(私のダイビング仲間はやったそうだ。ちなみに私はシュノーケルは装着しない)、注意力が散漫になってきていることは否めない。

昨年はヤップ島で潜水中にウェイトを紛失した。潜水途中に何処かで脱落したようなのだが、まるで気が付かなかった。安全停止の際に、やけに身体が浮くので変だな、とは感じたけれど船上に戻るまで判らなかった。

ダイビング中での事故は、相方(バディ)が知らぬ間に起こることが多いので原因がハッキリしないそうだ。海中の生物が死に追い込むこともあるようだが、ほとんどが酸欠による溺死か心臓麻痺、船のスクリューに巻き込まれたり波で岩や岸壁に叩きつけられる怪我が原因のようだ。

陸上ではそれなりに理解していても、エアーが切れたりゴマモンガラに襲われたり、ガンガゼやオニヒトデに刺されたり、急激な潮流に呑み込まれたりしたら、パニックで冷静な対処など出来ないのではないかと思う。
その為にも充分な経験が必要なのだろうけど、経験を積むにしたがい注意力が疎かになるというジレンマはどうすればいいのか。







連休最終日の月曜から、超が付く多忙さだった。

連休を利用してハワイ島へ行ってきた。その為の多忙さなのだから、当然といえば当然なのだ。
しかし、この様な忙しさを私は嫌いではない。むしろ純粋に仕事として楽しめる方だ。理想は旅立つ前に一気に仕事を片づけて、余韻を持ってゆったりと仕事に復帰するのが一番なのだが、今回は出発前に仕事を完了することが出来なかったのだ。それ故に日本に戻ったその日の夜も仕事をするハメになってしまった。時差ボケの頭で寝不足の身体に鞭打ち、かなりしんどかった。

前職は編集の仕事だった。当時は3日続きの徹夜など珍しくもなく、体力的にもどうって事は無かったのだが、最近は堪える。年だなぁ、とつくづく実感する。

さて今週末はハワイ島ダイビング・ログをまとめるとしよう。今回は素材が少なく、ページ構成に苦労しそうだが、金曜の夜に美酒を楽しめれば、良いページも出来るような気がする。

(明晩は事実上の決勝戦だぞ! 頑張れ!ニッポン!)




数年前から旅行に出る頻度が多くなった。その為か出発間際の段取りは、見事に手際よくなった。ほとんど、前回の旅行の持ち物を思い出しそのままバッグに詰め込んでお終いだ。
その際に一番気を付けていることは、前回の旅で持参し忘れた物を思い出すことだけ。だが結構これが難しい。旅の記憶など、よほど苦労したか楽しかったかしか残らないものだ。だから、持参し忘れて困った事など、なかなか思い出せない。……という事は実はそれほど重要なものではなかった……という事なのだが。

そういった機転に関しては、男よりも女の方が勝っていると思うのだが、皆さんはいかがか? 身分を証明できるもの(パスポート)と現金さえあれば、何とかなってしまうと考えるのは男の特性のようだ。もしも忘れ物があれば、その地で買い求めれば良いだけのことだ。しかしながら、かつてオーストラリアでクシを探し求めて苦労した記憶もある。その時はスーパーマーケットで入手できたが、仮にそれが見つからなくとも頭髪をボサボサのままで過ごせば良いだけのことだ。何にせよ、旅先で一番困ることは健康やその他のアクシデントだろう。

実は明日(既に今日だ笑い)の夜に日本を旅立つ。帰国は週明けの月曜だ。4泊6日の旅行である。機材は既に成田へ郵送手配した。あと持参するものはパスポートと現金と、……ウ?ム、何だ? 万が一の時はキャンドゥがあることを期待しよう。あるわけないか困った

雨でも降らない限り、土曜日はサッカーをしている。ほとんど毎週ボールを蹴り、走っているのだが、それでも時々筋肉痛になる。仮になったとしても普段はさほどの事では無いのだが、今日は酷い。完全に足を引きずっているような状況だ。股間の筋肉とふくらはぎが特に痛い。昨晩、ぬるめの風呂にゆっくりと浸りながらストレッチとマッサージをかなり入念にしたけど、やはり残ってしまった。

理由は判っている。金曜日の夜に深酒をしたからだ。二日酔いで酒が残り、頭はガンガン胃袋は裏返ったような状態でしかも寝不足。倒れないのが不思議なくらいの体調で走り回ったからだ。

昨夜は夜中に足がつるのではないかとビクビクしながらベッドに入った。睡眠中につると悲惨なのだ。意識のあるときなら早めに対処できるけど、寝ているときはもうろうとした意識の中でつるので、激痛になるまで気が付かない。いや、目が覚めない。目が覚めないどころかワニに足をかまれているような夢を見ていたりするのだ。「ワニに足を食いちぎられる?!」と叫び声を上げそうになった所で目が覚めて、激痛に慌てたりするのだ。
幸い足はつらなかった。

節制をしなくてはいけない年だというのに、無茶な事をした。……イカン、イカン(;^_^A……


今日は昼食を摂る時間も無くなりそうだったので作業をしながら食事を摂ることにした。
サンドイッチ伯爵がポーカー・ゲームの際に食すために作らせたので、その名が付いたというサンドイッチが一番なのだろうけど、元来わたしはパンが好きではない。ホットドッグやハンバーガーなら食べられるのだけれど、トーストやサンドイッチは嫌いなのだ(トマトサンドは好きだけど)。

ホットドッグなどそうそう売っている店があるわけでなし、そうなるとハンバーガーなのだが、かといって“犬もまたいで通り過ぎる”というマク○ナルドだけは食す気にはなれない。果てさてどうしたものかと思案していたら、ケンタッキーフライドチキンの看板が目に入った。「タシカ、ハンバガーヲウッテイタハズダ」と思い、店内に駆け込むとチキンバーガーとエビカツバーガー(確かそんな名前だった)があった。エビのバーガーを買った。

仕事をしながら食べるには少々難しい作りだったが、これが美味かった! 今までハンバーガーと言えばモスバーガーが一番の贔屓だったけど、これからはケンタのエビバーガーにしよう! それにしてもモスといいケンタといい、どうして美味いハンバーガーは食べづらいのだ? 食べやすいのは(マック)不味いし。ウ?ン、上手くいかないものだなぁ。アレ? おにぎりなら作業しながらでも楽に食べられたのか。いま気が付いた(~_~;) 仕事に振り回されて気が付かなかった。でも、ま、新しい発見があったから、今日は何となく嬉しい気分の方が勝ってるな。

江国香織の『泳ぐのに、安全でも適切でもありません 』を買った。短編集なので通勤途上で読むのにちょうど良いと思ったのと、彼女の作品を読んだことがなかったら。

で、本自体も薄くポケットにちょうど良いサイズで、1週間ほど通勤に付き合ってもらったのだけれど………、読破出来なかった(~_~;) 半分ほど読んで疲れてしまった。

決して難解な文章では無いのだけれど、どの作品もトーンが似通っていて飽きてきてしまったのだ。作品を読み終えた後に何も残らないのも、なんだか味付けの薄いところてんを食した後のような感じで…、ただ、フ?ンでお終い、残らない。

もう少し歯ごたえ、読み応えを期待していたんだけれど。
そういえば綿矢りさの『蹴りたい背中』を読んだときに近いなぁ。あの作品も途中で挫折してしまった(^_^;;; とってもモノトーンであの手の作品は苦手だ。文章表現力は劣っていても金原ひとみの『蛇にピアス』の方が、楽しませてくれた。

最近、ガツンッ! とくる作品に出会っていないなぁ。

ダイビングをしようと思ったのは20数年前のことだ。
セスナで移動して一気に滑り降りるスキーを体験したくて、新婚旅行はカナダへ行こうとカミさんと決めていた。チケット手配をしに旅行代理店を訪れたら、とても綺麗な海のポスターが貼ってあったので、「ここは何処?」と聞くとパラオという島だという返事。カナダの説明を聞いていたのだが説明は右の耳から左へと素通りし、“パラオッテ、ドコサ?”と思考していた。結局カミさんの同意も得ずに、その場でカナダ行きをパラオに変更してしまった。雪渓もある雪山から常夏の島へ、急きょ予定変更だ。

初めて訪れた南の島は、強烈なインパクトを私たちに与えた。しかし当時は私もカミさんも、どちらかといえば山派。スキーが共通の趣味だったし、カミさんはあまり泳ぎが達者でない事もあって、しばらくはスキーと登山を続けていたが、パラオ以来、私はいつも海に潜りたいと思っていた。
そしてそのパラオ行から十数年たち、ついに私はダイビングのライセンスを取得した。

「山は活力を与えてくれるけど、海は体力を奪っていく」とずっと感じていた。共に強烈な紫外線を浴びる場所だけれど、山のそれは優しく感じ海はきつく感じる。でも、海中だけは私に力を与えてくれている。

海中は人間が入っていってはいけない領域だ。しかし、遙か太古の昔に人間もそこから誕生したからか、海の中は母親の胎内にいるような心地よさを感じるのは私だけだろうか?
機材を使用しなければ呼吸が出来ない…という絶対的に人間を拒絶する世界だから、常に死というものを忘れるわけにはいかない。けれど、あのダイビングをしているわずか1時間そこそこの時間が、何とも安堵感に満ちあふれているのはどうしてか?(だからこそ危険なのだろう)
宇宙遊泳をしたことは当然無いが、ドロップオフ際のドリフト・ダイビングは、まさに宇宙遊泳の気分そのものだ。

今年も既に幾つかの島に行こうと計画を練っている。気を引き締めて潜らなければ、と思っている。宇宙人の様な可愛い魚たちに会いに、太陽光が揺れる無重力の世界を堪能しに。

子ども達がまだ小さい頃の姿が映るソニーの8?カセットがある。我が家のハンディカムは既に壊れてしまったので、秋葉原に再生機を探しに出かけた。
だが、液晶画面付きの再生機しかなく10万円以上もするという。私が欲しいのは単なるビデオ再生機なので、そこまで予算を捻出ことは出来ない。かといってこのままでは観ることも出来ない。結局、知人に今は生産されていないソニーの8?ハンディカムを借りて、DVDにダビングする事にした。

今は私の身長を抜いた生意気な息子達が、何とも可愛いものだ。まるで小動物がチョコチョコと動いているよう。昔を懐かしみながらダビングするのでまだ良いが、何とも大変な事になってしまった。7550691d.jpg

子ども達の成長記録をダビングし終えるには毎週末を利用しながら数週間はかかってしまうだろう。
そういえば、ベータで録画した映画も数本あるがベータを再生できるデッキは数年前に壊れてしまった。こっちは所詮、映画を録画したものだから、今更どうでも良いのだが…。そうだ、そういえば学生の頃、仲間と行ったスキーやモトクロス出場などを8?フィルムで撮影したぞ。あのテープはまだ再生できるのだろうか?

レーザー・ディスクなるものもかつて華々しく売られていたが、あれを買った人は今どうしているのだろう? レーザーディスクはフリスビーにもなりゃしない。

モツ鍋、ティラミス、ナタデココ。食品のブームは別に去ってくれても構わないが、記録が再生できなくなることは非常に困る。ハード機器が生産中止になるのは致し方ないとしても、売りっぱなしは許せないゾ。新しい記録ソフトへのダビング・サービスくらいしても良いのではないですか、ソニーさん。

昨日、父の墓参りに行って来た。一昨日降った雪が残っていて、北風が強く吹きとても寒かった。
頻繁に墓参する方ではないので、偉そうなことは言えないが、それでも年に3~4回は行っている。そしていつも感じるのだが、父の墓はいつ行ってもきれいだ。近隣の墓に比べていつもきれいで、枯れていることはあっても花が無いことはない。雑草も夏場に少し生えていることがあるだけだ。
今回も行ったら数日前に誰かがお参りをしてくれたらしく、花はまだしっかりとしていた。父がいかに生前、人に慕われていたかが想像出来る。

私は父に親孝行らしきことは一度もしてやれなかった。それどころか父を反面教師として位置付けていた。私自身が息子に対してそのように接しているので、父もそんな私のことを恨んではいないとは思うが、今となってはどうしようもない。
かつて父は「親孝行、やりたいときに親はなし」とよく言っていた。父は若い頃に両親を亡くしている。
当時私は、父が私に親孝行をして欲しいので言っているのだろうと思っていたが、もしかしたら今の私と同じ心境だったのかもしれない。それを私に伝えたかったのかもしれない(って事はやはり孝行して欲しかったのか!)。

さて、私の息子達は親孝行をしてくれるだろうか?(二人とも健康で道に外れたことをしてないから十分に孝行してくれてはいるが…)。 私が死んだら息子達は同じように感じてくれるだろうか? 墓参くらいはして欲しいなぁ。父のように家族以外の人からも献花されるようになれれば最高なんだけど、今の私には少々難しい。取り敢えずは私が他界した時に、息子達くらいからは尊敬されるような生き方をしないといけないな。


オートバイや自動車の運転が好きだった。何故に過去形かというと、最近はほとんど乗らなくなってしまったからだ。
バイクではかつて、日本中を走り回った。走行距離は通算で10万?を超えた。ザッと日本を3周したことになる。車の方はシビックRSという車に惚れ込み、ジムカーナ紛いのレースもした。
それが、オートバイはもとよりマイカーにすら乗らなくなった。乗る機会が無いのだ。昨年は多分、年間で200?も走っていないと思う。なので、本当に必要で乗ろうというときにバッテリーが上がってしまっていたりするのだ。実は先週の土曜日、大きめの買い物があり、雨も降っていたので車で行こうとしたら、案の定バッテリーが上がっていて結局寒い中、傘をさして出かける羽目になった。
今週末はバッテリーのチャージをしなくてはならない。もう少し可愛がってやらないといけないな。



JR山手線の神田と秋葉原の中間あたり、ガードの下に「天津飯店」という小さな中華料理店がある。最寄りの駅なら都営新宿線の岩本町だ。4人掛けのテーブル席が一つと7?8人が座れる程度のカウンターがあるだけの、本当に小さな中華屋さんだ。
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少々見辛くて恐縮だが写真のショーケースの中は、たった4品。エビそばとエビ焼きそば、そして餃子と瓶ビールが1本陳列されているだけだ。しかも、見事にホコリまみれ。この店構えを見ると、ちょっと入るには勇気が必要だ。
けれどこの店は実に美味しい。メニューも決してショーケースの4品しか無いワケではなく豊富で、お昼は日替わり定食も2種類用意されている。全てを食したわけではないが、何を頼んでも美味しいし、値段もリーズナブルなのだ。だから昼食時は行列が出来ていることも度々だ。

私は海老ソバと海老焼きそば(共に700円)がお気に入りで、病み付きになっている。月に1度は食べに出向くのだが、常連さんが“目玉ライス”なるものを注文するのを何度か聞いた。一度、横目で覗いてみたが、普通の目玉焼き定食のようだった。しかし、何度かこの料理が注文されるのを聞いたことがあるから、人気メニューであることは間違いない。
何時かは注文してみようと思うのだが、何時も海老のソバか焼きそばを頼んでしまってから、誰かの「目玉ちょうだい!」の声を聞いて、「アッ、また忘れてしまった……」と思い出す始末なのだ。
どなたか食したことのある方はいませんか? もし、いらしたら何故に人気メニューなのか教えて戴きたい。美味しいからだろうけど、何か特別な味付けでもされているのだろうか?

ここ数日、ライブドア堀江貴文社長の動向が話題をさらっている。
個人的には羨ましいが半分で、ちょっとなぁ…が半分だ。
羨ましいのは彼の人脈とあの若さ(無謀さ)だ。800億円のCB(転換社債)を発行してニッポン放送の株を買い付けたそうだが、お見事だ。社債返還の際に本家本元のライブドアが乗っ取られないことを願うばかりだ。
して、“ちょっとなぁ…”の方。多分、殆どの日本人がこちら側なのではと思うのだが…。

今、私たちは“資本主義”という経済システムの中で生きている。だから、金を得る方法はかつての汗をかく…、だけの方法から頭を使う or 金を使う方法まで選択肢が広がった。共産主義の世界では汗をかくしか金を得る方法は無かったけれど、資本主義経済世界では知恵をいかに使うかで金を得ることが出来る。アイディアを売ることも出来るし金を使うことで金を稼ぐ事も出来る。

ホリエモンこと堀江社長がやっているのは、まさに後者だ。金を注ぎ込んで金を稼ごうとしているわけだ。時間外の買い付けだのなんだのとバッシング的な事が報道されているけど、見聞する限り、決して違法行為をしているとは思えない。

でも、私は共感出来ないなぁ。彼の風貌&態度が私の肌に合わない事もあるけど、最大のマイナス点は彼が求めていることが自分の事だけのように感じられるからだ。長たる立場なのに、下部の事を思んばかる配慮が感じられないのだ。

彼は“株主が求める事をする”ような事を言っていた。確かにその通りだろう。けど、その最大の株主は自分自身じゃないか。彼がもしも本当に株主の事を考えているなら、M&Aも結構だけれど、本家本元のライブドアの収益を上げて株主配当を増やす事を目指すべきと思うのだ。

確かに先に書いたように、資本を動かして収益を上げる方法もあることも事実だ。私自身も資本の分散&投資をしている。
けれど、私は資産すら持てない人々の存在を忘れたことはない。彼の経営手腕を遙か下方から崇めさせて戴くとしよう。“資本主義”ゆえに金が中心に回っている世の中であることは間違いない。けれど、私たちは金のために生きているのではないのだ。たまたま時代が金を主体に動いているだけだ。
莫大な資産を得たホリエモン、君の力は認めよう。けれど、あなたは何の為に生きているのか? 金か?名誉か?地位か? 私にとって最大の資産&財産は金ではない。親族と友人達だ。

球団買収は失敗してしまったけれど、今度の買収劇は成功して欲しいなぁ。ホリエモンがその後にどんな事をやってくるか楽しみだから。ネットとラジオの融合なんて、みんな考えていた事を彼はどの様に実現してくれるのだろう? フジテレビも番組制作から編成まで、彼の手腕を見てみたいなぁ。1日中、彼が出ていたりして(^_^;;; 私には縁のない世界だから、下手なドラマを見るより楽しみだ。

私の人生観に影響を与えた、こんな話がある。

とある南海の小島に老夫婦がやってきた。
この老夫婦はかつて若かりし頃にこの島を訪れ、その美しさに魅了されて「晩年はこの島に永住し、あの椰子の木陰でノンビリと読書でもして過ごしたい…」と夢を抱き、がむしゃらに働いてお金を貯め、やっとその夢を実現出来る様になりやって来たのだそうだ。

老夫婦にとって、この南海の小島で日がなノンビリと暮らすことが終生の夢だったのだ。
ところが終生の夢であったこの南海の小島の椰子の木陰は、いつも一人の子供に占領されていて、自分達が木陰に入ることが出来ない。痺れを切らした老人は、ある日その子供に聞いたそうだ。
「君はどうして何時もこの椰子の木陰に居るんだい?」
「お爺さんはどうして、そんな事を聞くの?」とその少年。
お爺さんは答えた。「その美しい景色を眺めながら過ごしたいのだよ。それを目標に頑張って働き、苦労してやっとここに来れた。君は今そんな事をしていると、年を取ってから苦労するよ」と。
すると少年は、こう言ったそうだ。
「お爺さんがやりたかった事を、今しているだけだよ。苦労は後回しにしているだけさ」。

仕事は頑張るべきで苦労してはいけないと思う。仕事は楽しみであり、生きるための(目的を達成するための)手段であるべきと思う。仕事が目的になってしまってはいけない。山登りと似ている。登る過程(頑張り)を楽しむのが主の目的で、登頂することは二の次だ。仕事も一緒だと思う。ただ、仕事は結果が最優先される。だから楽しく働いて結果を出すべきだ。

1日24時間のうち、自覚して行動出来る時間は16~18時間しかない。しかもその内の半分以上を仕事で費やしている。人生の覚醒している半分以上を仕事で費やしてしまっているのだ。それが詰まらないというのはとても悲しいことだ。このお爺さんは、決して仕事に対して詰まらなかった…と言っている訳ではない。ただ、このお爺さんに私の父の生き様がダブるのだ。

父は決して仕事が嫌なわけでは無かったと思う。むしろ楽しんでいたと思う。けれど、父は自分のやりたかった事(晩年になってだが)が出来なかったのではと私は感じている。本人にとってはあまりにも突然の死だったから。

明日も確実に生きていると、あなたは言えるだろうか?  多分、生きているだろうけど“絶対”ではない。だから私は、今現在の仕事も趣味も全力投球で接したい。かといってワーカホリックでもないし、ボーっと1日を何も考えずに過ごす楽しみ方も知っている。
やりたいことがあったのに、それを実行しなかった事に対して、“やらなかった”ではなく“やれなかった”という言い訳をするような人生だけは送りたくないのだ。少なくとも死に際で未練を残ししたくない。
私の理想は「ア~、楽しかった! じゃあね、バイバイ!!」と笑顔で死んでいける人生なのだが、果たしてこの願いが叶うような人生を、私は送れるだろうか。



今日の産経新聞朝刊のコラムに、フランスの犬の行儀の良さが書かれていた。躾がしっかりしているので、レストランに連れて入る人もいるとのことだった。ほとんどの飼い犬が介助犬のような行儀の良さなのだそうだ。
私個人は犬が大好きなので、食事している側に犬がいてもなんら嫌では無いが、全ての人がそうでは無いのでは…と頭に“?マーク”の旗が立った。が、いまここで書きたいことはそのような事では無い。

私は十数年間、少年サッカーの指導をしていた。その時のことだ。遠征試合の帰り、バスの中で騒ぐ子供(サッカー部員)がいたので、私は他の乗客の迷惑と引率者としての私の立場上から「その様な事はお父さんやお母さんがいる時にしなさい!」と、その少年の頭を小突いた。
数日後、そのサッカー運営委員会で「親ですら叩いた事のない我が子の頭を殴ったコーチがいる」と問題になったのだ。私的には決して殴ったなどという意識は毛頭無く、“小突いた”程度なのだが、等の親御さんには“殴った”様に見えたらしい。それよりも私が驚いたのは、その子供の母親が引率者の一員としてそのバスに同乗していたというのだ。

その母親は、何故その時に自らの子供を諭さなかったのか? 他の乗客の姿が目に入らなかったのか? 自分で叱責しようとした矢先に私が小突いた事に気分を害し、後日の運営委員会席上で私が殴った…と言ったのだろうか? 自分の息子の手前、そばに居ながら何も言わず、行動せず、後になって運営委員会で話す方って事の方が親として恥ずかしいと感じなかったのか?

日本の行く末が恐ろしい。先日の17歳少年の凶行や、ここ数年頓に増えている少年犯罪、それにもまして、立派に成人しているはずの大人の理解不能な異常犯罪など、全ての根源がここにあるような気がするのだが、その様に感じるのは私だけか?
 
むかし自分が少年時代に、悪さや行儀悪いことをすると見知らぬ大人から怒られたものだった。だから子供時代の私にとっては、大人は全て両親も含めて“怖い”存在だった。
今の世で、大人が子供の怖い存在であるべきとは思わないけど、悪いことは悪いと教えるべきで、大人自らが規範となる行動を取るべきだと思うだが、今のような個人主義の時代には難しいのかもしれない。行儀を諭そうと下手に小突けば「変な大人が我が子に暴行を振るった!」なんて逮捕or告訴されかねない時代(社会?)だからなぁ。どうしてこんな日本になってしまったのだろう?



かつて高校生の頃パーマをかけていた(当時はリーゼントだった。あの頃はツッパッていたのだ困った)ことがある。社会人になっても時々、パーマしたことがあったかも知れない。
ところがここ数年のことだが、どういう訳か天然パーマになってしまった。チリッチリの天然ではなく、軽いウェーブ状の軽い“クセっ毛”ってやつだ。洗髪をした直後、ドライヤーを当てると毛先がウェーブしてしまう。決して嫌なわけでは無いけれど、この歳になってどうしてだろうと不思議でしようがない。 そうか! 丁度ダイビングを始めたあたりから、このクセッ毛は出始めたような気がする。紫外線のせいか、はたまた海の波が私の髪の毛に宿ったか……。

原因はどうあれ、セットが楽になったので助かっていることは事実だ。出来うることなら白髪が中途半端で無ければ最高なのに(~_~;) ゴマ塩頭は好きではない。いっそ真っ白に染めてみようか……(ウ~ン、想像すると微妙ダ……ダメ)。

西日暮里駅周辺は料理屋が少ない。夜のお店は結構あるのに、食事専門店が少ないのだ。ビジネス街ではないから致し方ないのかもしれないけれど、昼食時は本当に困る。ラーメンや寿司が好きなのだけれど、駅周辺の寿司屋もラーメン屋も美味い店がない。
そんな中で私が良く利用するのは「しすせそ」という名のそば屋さんだ。実際はうどん屋さんなのかも知れない。何故なら“さ”が無いからだ。つまり“さ”抜き。→讃岐うどん屋さんなのかも。

このお店、ご夫婦(多分?)で切り盛りされているカウンターだけのお店だ。一番のお得意さんは開成学園の生徒達だろう。いつも大挙して来ている。彼らが来ると席は一つか二つしか空かない。このお店の良いところは蕎麦やうどんの種類によってお汁を変えているところだ。うどんは昆布出汁の薄味だし、ソバは鰹出汁の醤油ベース。西日暮里駅周辺で昼食タイムの機会があったらコチラがお勧めです。さて、これから私もお昼時間。本日は肉ソバにしようか。

地元の小学校で子供達にサッカーを指導し始めて16年ほどになる。ここ数年は、指導者の立場を抜けさせて戴き、単純に健康と楽しみのために軽く汗を流させていただいている。

そしてやっとこの年になって“人に教えること”の意味が判ってきたような気がする。人に何かを教える…って事は、確かに教え方の上手い下手もあるけれど、その人の技量の問題が大きい。自分が持っている、知っていること以上のものは教えようが無いからだ。だから己の自己管理や啓蒙が必要になってくる。彼ら全員に大きな芽が育つ可能性がある。技量&指導力の低い指導者の下についた生徒達は可哀想だ。

子供達も低学年ならサッカーのルールと基本的な事を知っていれば何とかなるが、高学年ともなると指導者自身の技量と指導力、人間性が問われる。“良いオヤジ”で通用するのは4年生までだ。指導者自らが自分の技術の進歩を目指し、努力している姿を子供達には見せるべきだろうと思う。

さて偉そうなことを書いてしまった(^_^;;; 今日も天気は良さそうだ。グランドの端っこをお借りして、本日も少しボールを蹴らせていただこう。楽しみを60?、技術の低下阻止を40?の目標値において。

昨夜は久しぶりにドキドキした。サッカー日朝戦。
試合開始前から楽勝と思っていたし、小笠原のフリーキックで先制した時点で楽勝ムードは確信に変わっていた。
それなのに日本代表チームも楽勝と思ったのか、その後は情けないプレーが続いた。北朝鮮チームの気迫と粘りは、完全に日本チームの上をいっていた。なめてはいけないのだ。同点で終わっていたら大変だった。ホームでの引き分けは負けに等しい。終盤、いっそのこと負けてジーコ更迭も良いか……とマジで考えていた。ロスタイムの大黒の得点で辛勝したけれど、先が思いやられるなぁ。
おかげですっかり飲み過ぎて二日酔いになってしまったゾ!(それは日本代表のせいでは無いか(^_^;;; )

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